鴨川の敷地70坪に 自分のユートピアを実現
【石田紘一(いしだ ひろかず)氏】
<ご紹介するのはこんな方>
石田紘一(いしだ ひろかず)さん(80代)
鴨川市・東京都 二拠点生活
家族構成 ご夫婦2人住まい
リタイア後、20年近く鴨川と東京との二拠点生活を続けている石田紘一(いしだ ひろかず)さん。50年以上、写真家として活躍し、鴨川の家にはZIPという名のギャラリーを設けています。
石田さんにとって鴨川はどんなところなのでしょうか?
写真家としての人生と、今の生活についてお聞きしました。
鴨川の住宅街にある別天地
石田さんのお宅は、鴨川の住宅街にあります。もともとは奥様のご両親が別荘として使われていた一軒家を引き継ぎました。
70坪の敷地に立つお家は内装もきれいな二階建てで、ハンモックが揺れるウッドデッキもあり、楽しく過ごせそうです。お庭は雑草を抜くのも木の枝を落とすのも必要最小限にされているとのこと。小さな生き物が大好きな石田さんの家には今、4匹の猫と100匹以上のメダカがいて、ウッドデッキの軒下にはツバメの巣があります。以前には犬と小鳥もいました。
お家の一部屋はギャラリーになっています。これまでに出版した9冊の写真集をはじめ、世界を旅して見つけた民芸品や美術品、ご自身で描かれた絵などが並んでいます。
この界隈は安房鴨川駅からもさほど遠くはなく、よくある郊外の住宅街に見える一角なのですが、石田さん宅の中は、ちょっとした別天地に感じられます。
【いい夢を見られそうなハンモック】
【ギャラリーZIP】
【雑草も木も、できるだけ自然に任せて】
写真家としてのはじまり。インドへ
石田さんは、ふとしたきっかけで写真を学ぶ道に進みましたが、写真の面白さに目覚めたのは大学で本格的に撮影を始めてからでした。その頃は、フォト・ジャーナリズム全盛の時代。そんな中で、フォト・エッセイという新しいジャンルを拓いた長野重一(ながの しげいち)氏と出会い、師事します。フォト・ジャーナリズムは「事実をありのままに撮る」ものですが、フォト・エッセイは「1枚の写真の中に自分の考えや思いを表現する」というもの。若き日の石田さんは、自らの道を暗中模索する中、あるときインドに向かおうと決意しました。
当時、インドのビハール州では貧困問題が深刻化し、餓死者が多数出ていると知って、その写真を撮りに行こうと思ったのです。飛行機に乗っての海外旅行など、庶民にとっては夢のまた夢の時代でした。フランスのマルセイユからインドのボンベイ(ムンバイ)まで3週間かけて運航する貨客船があるという情報をつかみ、3か月働いて旅費を作って、横浜から三等船室に乗り込みました。
一夜の出来事でライフワークに導かれる
3週間後、ボンベイの町に着いたのは夜の8時くらいでした。まだ寒かった日本を出発してきた石田さんは、3月のボンベイの蒸し暑さに驚き、大きなリュックを背負ったまま呆然と、何時間も町をさまよいました。
「…餓死者ってどこにいるんだろう?」
などと考えながら歩いていると、ドーティ(腰布)1枚で上半身は裸の男が手招きするではありませんか。彼は、道端に敷いた毛布を指さして「ここに寝ろ」というジェスチャーをしました。隣にはもう1枚毛布が敷かれ、彼の子どもが寝ています。毛布の上で一晩過ごした石田さんは翌朝、男から朝食のチャイ(紅茶)を一杯ごちそうしてもらいました。お礼を言って別れると、男は自分の前に空き缶を置いて、子どもと一緒に座りました。親子は物乞いでした。
「…自分は、物乞いの男から一宿一飯の恩を受けたのか!?」
驚きと、得体のしれない感動に打ち震えました。石田さんのライフワークの方向性を決定づける出来事でした。後に出版する写真集のタイトルにした「神様に一番近い人たち」との最初の出会いです。
その後、なんとかボンベイで安宿をみつけた石田さんに、次なる衝撃が。
暑さから逃れようと入ったJAL(日本航空)のオフィスで、棚にあった「アサヒグラフ」を開くと、そこには自分が撮ろうと思っていた餓死者や物乞いの姿などが、報道写真家によって撮られ、載っていました。自分が撮る前に、すべて、すでに。石田さんが船に揺られてインドに向かっている間に、ビハール州では州知事による飢餓宣言がなされ、報道写真家たちは日本から飛行機で飛び、ジープで現地入りしていたのです。石田さんは即座に決断しました。
「報道写真はあきらめよう。 ビハール州まで歩いて旅をしながら人々の日常生活を撮ろう!」
その決断には、インドに着いた晩の、あの物乞いとの出会いが影響していたことは間違いありません。
こうして、地元の人々と一緒にバスや電車に揺られて旅を続け、写真を撮りました。人々の日常のさりげない一コマ、市井の人が、ふと示すユーモラスな表情。その後もライフワークとして、ずっと石田さんが撮り続けたものです。
ところで、石田さんはインドの旅で人々の日常を追うにつれ、その姿をうらやましく思うようになりました。いったい、なぜだったのでしょうか?
【廊下にもさまざまな宝物が並ぶ】
【ユートピアで猫も大あくび】
鴨川が長い間憧れていた「ふるさと」になった
石田さんは、お父さんの仕事の関係で「ふるさと」を持てないまま育ちました。そのためか、日本の原風景といわれるようなものや、「ふるさと」のイメージに、つねに憧れていました。インドの風景や人々の日常の中には「ふるさと」を感じられる何かが濃厚に漂っていたのです。
今、鴨川は石田さんにとって、たしかな「ふるさと」になりました。ご本人はこのようにおっしゃっています。
「鴨川の、この70坪の敷地で、夢だった自分のふるさと、原風景を、作り出すことができました。ここは僕にとってのユートピアです。この世なのか、あの世なのか。自分の願いがかなっているから、ひょっとしたら、あの世かも? …と思ったりもします」
【メダカのお邸】
鴨川と東京 二拠点生活のギャップを楽しむ
「あの世かも」などと口にされる石田さんですが、なかなかどうして活動的です。週半分は鴨川で過ごし、残りの週半分は東京で過ごす、という二拠点生活をずっと続けています。移動は高速バスを使うこともあれば、自家用車で向かうことも、ときには電車に乗ることもあるそうです。車だと1時間40分ほどしかかからず、東京と行き来しやすい鴨川暮らしのメリットを存分に活かしています。
石田さん曰く、
「鴨川での生活は、なんといっても静か。貴重な静けさに恵まれています。東京は賑やかで刺激があり、窓から見える新宿の高層ビル群の間から昇る朝日も美しいと思います」
とのこと。
ユートピアは自分がそこでつくるもの
安房地域への移住を考えている方に、アドバイスをお願いしたところ、石田さんは少し考えた後、次のように答えてくれました。
「僕が、鴨川を終の住処としたきっかけは、偶然でした。
田舎暮らしをしたくて探したわけではなかったのです。今、ここがユートピアだと感じていますが、いつか離れなくてはならないかもしれません。そうしたらまた次の旅と考えればよくて、自分にあてがわれた場所…それが田舎でも都会でも、そこに馴染むか、馴染まないかということだと思います。どこへ行っても自分次第で、自分の世界を作ればいいのかな、と思っています」
インタビューを終えて…
「自分が年齢を重ねていったとき、どのようになりたいか?」と考えたときに「こんなふうにありたい」と思わせてくださる石田さん。
東京と鴨川を行き来しながら、ときには白浜(南房総市)まで、仲間と磯釣りに出かけたり、ときには山梨県までソロキャンプをしに行ったり。昨年は80歳になった記念にフィリピン共和国のカオハガン島を訪れてシュノーケリングに興じたとのこと。
これからも、ご自身の人生の旅を楽しんでください!
【フィリピン共和国 カオハガン島近くにて】
【ときにはソロキャンプを楽しむ】
石田紘一さんホームページ
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